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ミッチの部屋


ペパートの哲学に恋をして

(原文はMITメディアラボLifelong Kindergartenグループのウェブサイトにあります。
このエッセイは2008年3月にAERA(American Educational Research Association)で話されたスピーチをもとにしており、許可を得て翻訳しています。)

−Mitchel Resnick

シーモア・ペパートをたたえるセッションを始めるにあたり、ペパートが私の研究に影響を与えたすべてのアイデアを思い浮かべてみます。

私の今の研究テーマ−こども達にデザインやものづくりをとおして学ぶ機会を与えること−は、ペパートのコンストラクショニズム理論という考え方に導かれたものです。

こどものためのテクノロジーについて考える時、"Low floor"と"High ceiling"ということはよく言われ、こども達がとっかかりやすいように敷居を低くし(Low floor)、そして単なるこども騙しのおもちゃではなくきちんと高度なことまでできるように天井を高くしておいてあげる(High ceiling)ことは重要でした。ペパートはそれだけでなく、"Wide Walls"ということを付け足しました。つまり、多様性を確保する、ということです。このように、とっつきやすく、可能性の幅を拡げることだけでなく、学びのスタイルや学び方のそれぞれ異なるこども達すべてがアクセスできるようなテクノロジーをつくることが大切だと導いてくれたのは、ペパートやシェリーのEpistemological Pluralism(認識的多元論)の考え方でした。

そして、ペパートがいう「Hard Fun」、つまり「手強いおもしろさ」を大切にしようという考え方は、テクノロジーや実践は単におもしろければよいのではなく、学び手がそのなかで真剣に没頭し、チャレンジングな探求ができるようなものでなければならないということを教えてくれました。

これらはみなすべて大切な考え方です。
ペパートはこれを「パワフルアイデア」と呼んでいます。でも私がこれらの「パワフルなアイデア」について考える時、それについて単に説明するだけでは、ペパートの何がすばらしいのかということを十分にお伝えできていないように思えるのです。ペパートがどれほど私に影響を与えたかをみなさんにお伝えするために、今日は頭で考えるのではなく心の感じるままに話をさせてください。

私は1982年に初めてペパートに会いました。その頃私はシリコンバレー一帯をカバーするBusiness Week誌の科学技術系記者として働いていました。パソコンがそのほんの数年前に開発されたばかりで、シリコンバレーに身をおくにはとても面白く刺激のある時代でした。Steve JobsやBob Noyceなどの活気ある前衛的な起業家に定期的にインタビューをとったり、毎日が本当にエキサイティングでした。しかし、私はいつも「何か」が欠けていると思っていました。自分の仕事はとても楽しく充実していたのですが、何かが足りなかったのです。それは、自分に与えられている使命、なんのためにその仕事をするのかという目的でした。私は自分の人生の意味を深く感じることができないでいたのです。そんなとき、ペパートに会いました。

1982年の春、西海岸で行われたWest Coast Computer Faireにはパーソナルコンピュータにいち早く目をつけた好奇心旺盛で先進的な熱心な人々が集まっていました。私はペパートのセッションを聞きに行き、そこですぐに彼の話していることと自分の仕事との強力なつながりを感じたのです。そこでLogoやTurtleについて知れば知るほど、そのおもしろさにぐんぐん引き込まれていきました。私は大学時代に物理を専攻していたので、ペパートの言うタートル幾何学は数学的・科学的なアイデアを思考するときに大いに役立つ新しい方法だと直感しました。ものすごく興奮しました!でもその興奮を25年間も持続させてくれたのはそれだけではありません。ペパートの考え方には他と違う何かがありました。

彼の著書"Mindstorms"の序文をかざる、彼のすぐれたエッセイ「Gears of My Childhood」を思い出してみてください。その短いエッセイの中には、ペパートの人生においてギア(歯車)がどれだけ影響をおよぼしたかが書かれています。彼は、2歳にもならないうちに歯車に出会い、それで遊びはじめ、歯車にとても興味を持ちました。そしてそのことが、後の彼の人生において数学や科学について考えるときにどれほど役立ったかということを語っています。しかし、個人的にいうと、このエッセイで最も大切なパートは、エッセイの最後のほうにあるイタリアン書体になっている部分です。ペパートは言います。
「I fell in love with gears.(私は歯車に恋をした。)」
ペパートは歯車に熱烈に魅了され、夢中になったのです。そしてそのことが彼を他と違う存在・特別な存在としているのです。

1982年にペパートに会った時、私は単にペパートの考え方を知り、吸収しただけではありませんでした。(ペパート流に言うなら)私はペパートの考え方に熱烈に魅了され、「恋していた」のです。そしてそれから25年経っても、その恋は色あせることがありません。ペパートの哲学は私に生きる目的と、使命と、私が仕事でやっていたことの意味を、いや、仕事というより人生における意味を見出させてくれたのです。

その中核にあるのは、すべてのこども達が(「本当に」すべてのこども達が)、夢中になるものを見つけ、情熱をもってそれを追いかけ、新しいアイデアをどんどん模索し、実験し、試し、そして自分の考えを確立できるような機会を提供したいという希望です。この情熱は彼の人生において、彼自身を引っぱっていきました。私は彼のことを、世界でも有数なすばらしい「学び手(学習者)」の1人だと思っています。情熱を持って常に新しいアイデアを模索し、考え、時にそのアイデアで遊び、アイデアと真剣勝負の取っ組み合いをし、そのアイデアで人とつながりコミュニケーションをしていく新しい方法を発展させてきたのです。私はあんなにプレイフルで、かつシリアスな人には会ったことがありません。

しかしもっと重要なのは、ペパートはこれらの機会を自分ではなくこども達が持てるよう、自分の人生をささげたことです。こども達の誰もが情熱を見つけ追いかけてゆくことのできる機会、そして、こども達が自分の考えを確立し自分の声で発信することのできる機会に恵まれるようにと自分の人生を費やしました。ペパートが掲げたこれらのゴールについて、彼はいつも順風満帆だったわけではありません。しかしビジョンそのものは非常にパワフルなものでした。それはこども達に対して深い敬意のはらわれたビジョンだと思いますし、そのビジョンこそ、私が将来理想とする社会の基盤となるものなのです。

それ以来25年間、私は自分の仕事に同じゴールを設定してきました。
クリケットのような新しいロボティクスキットをつくるときも、スクラッチのような新しいソフトウェアをつくるときも、コンピュータクラブハウスのような教育的環境をつくるときも、何をするにしても、ペパートが昔掲げたビジョンに基づき、すべてのこども達が(すべてのバックグラウンドですべての分野のこども達)、自分の情熱を見つけ、追いかけ、実験し、模索し、自分の言葉で発信できるような機会を提供することを目指してきたのです。これらのビジョンの実現は決して簡単なことではありませんが、このゴールを達成することには深い意味があり、そのことが私の人生を意味あるものへと変えてくれるのです。

昨年、IDCのカンファレンスでスピーチをした際、私のプレゼンの後のQ&Aセッションで誰かがこう言いました。
「それって、シーモア・ペパートがすでに25年も前にやっていたことじゃないんですか?」
その質問は皮肉にもとれましたが、私はそれを賛辞として受けとめました。そこでシンプルに答えました。
「そうですよ」と。
私にとってペパートのアイデアは1980年に"Mindstorms"が出版された頃と変わらず色あせないまま強烈に残っているのです。彼の哲学は私に、人生における道やビジョン、目的やゴールの意味を与えてくれたのです。私は今日も変わらずペパートの哲学に恋をしています。彼の夢見た世界を具現化していくために自分の人生を費やしてゆくことをとても誇りに思っていますし、そのことをとても幸せなことだと思っています。



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